想いでの症例 -3-

平成15年前後の夏、当院付属の居宅介護支援事業所に1件の往診依頼が入った。

 

90代の女性、春すぎまでは近医に通院していたが通院が困難になってきたためだった。

たまたま通院していた近医は私の同級生だった。

 

居住地が当院からあまり今まで行ったことのない地域で土地勘や地理には疎かったが断る理由もなかった。市内のほぼ街の中心部にあった。

まわりには大きなビルが立ち並ぶ中の古い木造2階建て家屋で多少の異和感はあった。

 

逆にそれは古くからそこに住居を構えていたことの証であり、

この辺りの古い地主であったのかもしれない。

 

近くの北海道神宮が札幌神社として造営されたのが明治4年、

明治の初めの頃はこの辺りでも雪野原だったと小説「石狩平野」で読んだことがあった。

 

早くから開墾開発されてきた地域だ。

明治43年生の患者様はそのような札幌のあけぼの時代に生きた方だと推測した。

 

 

 

患者様はベッドに臥床、開眼、意識は清明だった。

 

起座、座位保持、立位保持は困難のようで介助を必要としていた。

 

主介護者は次男さんだった。次男さんこの時60代後半、

東北地方にお住まいのようだったが介護のためにしばらく札幌に滞在していた。

 

そのほかに東京在住の三男さんも時に待機されていて手が必要な時は手伝っておられた。

もう一人男の兄弟の方がおられた。

 

さらに、日曜日や祭日には一番下の妹さんが替わっていた。

 

妹さんはこの当時まだ勤務されておられ平日は介護に参加できなかったため

日曜のみお兄さんと交替してお兄さんを休ませてあげていた。

 

 

 

聞くところによれば次男さんは衛生管理関係の仕事をされていたと言い、

少なからず医療面に素養があった。お母様がポータブルトイレで排泄をする際も、

週1回の家のお風呂に入浴する際も二人の男のご兄弟が力を合わせて当たっておられた。

 

私の20余年に亘る訪問診療の歴史の中でご兄弟が

このような見事な連携をとって介護されていた例はほかになかった。

そういう意味でも記憶に残る麗しい理想的な在宅介護の一例だった。

 

 

 

また、在宅医療・介護が成り立つためには介護する家族が

少なくとも2名以上いないと困難だ、と言うことを思い知らされた症例でもあった。

 

連れ合いの方だけでは老老介護で共倒れしてしまうし、

娘さん一人だけでもその負担は大きすぎて潰れてしまう。

 

いくら外からプロの介護サービスを導入しても主介護者一人のほかに

サポートする介護者がもう一人欲しいのが実情と思われた。

 

 

 

古くからの2世代、3世代が同居する大家族が残っている本州では可能かもしれないが

核家族や住宅事情が貧困な北海道では病者を自宅で介護する場所も人的余裕もないのが現実だった。

 

最初の訪問から1ヶ月くらいは、ほぼ寝たきり状態、座位は可能、

声かけに微かに頷く程度、発語はまれにみられる、

 

食事は介助で数口可能だったが嚥下障害あり、当初から仙骨部に褥瘡があった、という状況だった。したがって訪問診療の他に訪問看護が必要だった。

 

 

 

私の診療所からは距離があったしまだ訪問看護師がいなかったので

近隣の訪問看護ステーションにお願いし日常の病態管理と褥瘡処置してもらうこととした。

 

今では当たり前のことになっているが当時はまだ他事業所のステーションと共同作業を行うことは稀だった。

最近ではこれを“連携”という言葉で表現しているがこの症例はそれを実施できた初期の例だった。

 

水分摂取量が不足気味だったので早い時期から補液も開始した。

こうして家族による介護とこの分野の医療とが協力してチームとなり

自然な看とりへのお手伝いをすることとなった。

 

 

 

医療・介護の方針については次男さんがしっかり方向を定めておられ、

病状の悪化や急変があっても病院へは入れない、と決めておられた。

 

自宅で最後を看取る、という強い方針を次男さんは持っておられた。

また、ご兄弟もそれに賛同し、したがっておられた。

 

 

 

週3回の200mlの補液、食事介助による経口摂取、

ラコールなどによる栄養補給を行い8ケ月くらい経過した。

次第に咽るようになり経口摂取が困難になったため食事摂取は少量とし、

その代わり補液を500ml毎日点滴した。私も点滴チームの一人として加わり、

ステーションの看護師、当院の看護師と1週間を分担して行った。

 

こんな状態で約1年経過した。次第に食事もまったく摂れなくなり、

発語もなくなり、排泄もベッド上になり入浴も出来なくなってきた。

 

最後の6ケ月は500mlの点滴のみで過ごした。

そして閉眼の日が多くなり眠ったような状態で経過していた。

10月某日昼過ぎ訪問看護師より点滴が入らない、との連絡が入ったがご家族の意向により皮下点滴などせずにそのまま様子をみることになった。

 

徐々に血圧が下がり、酸素飽和度も低下し、夕方には肩呼吸となった。

静かにお子様たちに囲まれて旅立たれた。

全経過2年3ケ月で、90代後半だった。

大きな基礎疾患はなく老衰と言えるような自然に近い状態だったと思われた。

想いでの症例 -2-

平成11年7月14日訪問診療開始となった。

すでに訪問していたご近所のSさんよりの紹介だった。

 

82歳男性、元高校教師、脳梗塞後遺症でほぼ寝たきり状態、

パーキンソン症候群、胃癌術後、結核術後などの診断名が前医からの紹介状にあった。

 

訪問時、ベッドで臥床しており自力で起き上がることは出来なかった。

 

左肺に微かにヒュー音を聴取するも心肺には異常なかった。

介助で起き上がり、起立保持可能、掴まり介助歩行は可能だった。

このような状態で在宅訪問診療を開始した。

 

訪問リハビリを週1回、訪問看護を2週間に1回、

訪問診療を2週間に1回のペースで開始することとした。

 

間もなく調子の良い日は自力で起き上がり居間へ小刻み歩行することが出来るようになった。

立ち上がり、立位保持訓練、杖歩行1往復、などのリハビリを毎週行った。

 

その間、現役時代に歩いた山の話、小鳥の話などをした。

また、今後の病状のなりゆきなどを考えておられたようで、

尊厳死の誓約書を書いたから先生に視てほしい、とも言われた。

 

次第に行動範囲が広がり調子が良い日は庭に出て

外の空気を1年ぶりくらいに味わった、と喜んでいた。

 

9月に本州から息子さん夫妻が来訪され、うれしくてビールで乾杯した、とも話された。

 

 

平成11年頃と言えばまだ在宅死や尊厳死、

リビングウイルなどはごく一部でしか語られていなかった。

その頃すでにY氏は尊厳死についてかなり深く考えておられたようだった。

 

相談された時、私は最も重要なのは本人の意志なので

それをどんな形でも良いから自筆で署名して残して欲しい、と伝えた。

 

リビングウイルの文書化である。

 

ところが聞いてみるとY氏はそれに遡ること10年以上前にすでに公正証書として

尊厳死の宣言書を公的に成していた。

 

何故にそれ程死について向き合うことが出来たのか考えてみると

Y氏は様々な大病を患ってきておられ、

病人としての生活を身にしみて知っておられたからと思う、

さらにその度に死に直面してきたんだな、と思い量ることができた。

 

平成11、12、13年は大きな変化なく、発熱も一度くらい、食欲はある日もない日もあり

食べれない時はエンシュアリキッドで補っていた。

 

リハビリの効果あり本人の意欲もあり

調子の良い時は掴まりながら歩いたり出来ていた。

 

車椅子で外を30分くらい散歩することもあった。

84歳を超えた平成13年暮れくらいから食欲が低下し

トロミ食やゼリー食も選択肢に上がってきたが奥様はまだ早いと、延期になったりした。

 

調子の良い日は食欲もあり、会話も多く過ごせた。

4月になって入浴後38度超の発熱あり、抗生剤点滴と解熱剤で対応し、3日目には解熱した。

 

5月以降暖かくなってくると体調も良好な日が多く庭に出て外気浴をすることもあった。

 

もう一度藻岩山に登って自分が命名し登録された固有種、藻岩ランを見に行きたい、とも話された。

11月の始め頃までは徐々に低下は見られたが概ね平穏に経過された。85歳になられた。     

 

11月始めに家族の止むを得ない事情のために老人保健施設のショートステイを利用することになった。

環境が変わったせいか容態は急変した。中旬には誤嚥性肺炎で呼吸器系病院に入院した。

本人の希望もありまだ回復途上で再発も懸念されていたが下旬には退院してきた。

 

なんとか経口摂取していたようだった。その後も在宅で調子の良い日は自力で食べていた。

痰がらみ多く吸引を頻繁に行う必要性が生じていた。

 

何とか年を越えH15年1月痰がらみ多く酸素飽和度の低下が頻繁に起こり、

吸引、酸素吸入を要するようになった。

在宅酸素が導入され多少呼吸は楽になったようだが痰がらみは同じだった。

 

奥様とご本人に相談し一先ず入院することになった。

お二人は入院の話に涙ぐまれていたが覚悟もされていたようだった。

 

H15年1月10日、前回と同じ呼吸器系の病院に入院した。

病院では嚥下機能の低下から誤嚥性肺炎の再発防止のため

経口摂取は中止し中心静脈栄養となっていた。

 

本人、奥様へも相談があった上での施術と思われ、本人も受け入れざるを得なかった、と推察した。

 

翌、2月19日退院してきた。在宅で中心静脈栄養を継続することとなった。

本院では初めてのIVHだった。

 

以降、看護師と私が分担して毎日栄養補液剤の交換と吸引、容態確認のために訪問した。

当初、注入ポンプを設置していたが警報音が頻繁に鳴り、

奥様が安眠出来ないとのことで自然落下とした。

 

2月19日退院してきてから逝去する4月17日まで8週間、容態は徐々に悪化していった。

4週間くらいは比較的平穏で酸素吸気なしで済ませていた日もあった。

 

退院後心不全の兆候出現し、浮腫が顕在化してきた。

利尿剤で浮腫軽減も試みた。

 

酸素飽和度は3月に入ってから90%を切る日があり、酸素吸入3L~5Lで90~92%保てた。

4月1日発熱もあり、容態は悪化した。

痰排出量はさらに多くなり、吸引が間に合わないくらいだった。

 

奥様も夜間の吸引に疲れ体調をくずされていた。

本人も辛いようで吸引後“苦しい、死にたい”と吐露されたりもした。

 

このような闘病生活を最後自宅で過ごされ、退院から8週後静かに息を引き取られた。

 

 その後、奥様は息子さんがいる東京近郊の施設に転居されて行った。

しばらく年賀状のやり取りをしていたが10年後息子さんが先に、そしてその後奥様も他界された、と風の便りに聞いた。

 

今はご家族そろって団欒されておられることと思われる。

 

本症例は、公正証書で死に直面した時の態度表明を明確にされていたこと、

それにも関わらず現実、経過中の急性病変については

ある程度の医療処置を受容れてくださったこと、

 

在宅で中心静脈栄養を実施したこと、の3点で当院には始めての経験であった。

想いでの症例 -1-

平成10年暮のある日、某病院の医療相談員から電話があって

一人の男性患者が退院するので在宅で診て欲しい、という依頼だった。

あまり身寄りのない孤独な一人の老人だった。

 

当時79歳、生活保護受給者だった。

軽い脳梗塞で脳神経外科に10日間入院しその後転院しリハビリ後退院となった。

右側上下肢に運動障害がみられる不全麻痺だった。

退院するにも住む所がなく、本人は一人で住んでやっていけるか

それを一番心配していた。

 

保護課ケースワーカーが探してくれた古いアパートの一室に入った。

昭和の時代の木造2階建て、通路(外廊下)に面して部屋が並ぶ、

所謂(不動産屋さんが言う)下駄履きアパートだった。

その一番奥の角部屋にともかく帰ってきた。

 

一人で不安だと言うので先ずデイケアに週2回来てもらい訪問看護を週1回導入した。

さらにヘルパーさんに週2回入ってもらい生活をサポートしてもらうことにした。

介護保険制度が始まる2年前のことであった。

 

当初膝関節痛があり歩行が不自由であったがデイケアや

訪問看護で歩行訓練を重ねるにつれて次第に杖をついて少し歩けるようになった。

部屋の中は細々と動き、まめに簡単な料理は自分で作って食べていた。

 

H11年3月からは訪問診療を開始した。

アパート自体は古い木賃アパートだったが角部屋だったためたまたま裏のお宅の庭が見え、春にはレンギョウや梅が咲き楽しめた。 

 

こうして一人暮らしに不安が薄らぎH11、H12が過ぎていった。

H11年の初冬ころから血圧がやや上昇し始め、看護師の報告では部屋の温度が低い、とのことだった。

室温が低いと血圧が上がっていることが多い、と。

夜間ストーブをつけないですごしているようだった。

 

こうした寒い環境の中でH12の正月を迎えた。

降圧剤を追加し、部屋の仕切りや暖房機を調整して夜間の寒さをしのぎH12年の冬も過ぎた。

 

H13年の春になって部屋を片付け寒さよけに壁に立てかけて置いたボードや畳を除けてみるとなんと壁の板は何枚か失われていて大きな穴となっていた。

ここから冬中寒気が入り込んでいたに違いない。

そう思ったらもうこの住居では次の冬は越えられまい、と直感した。

 

5月連休の間、部屋探しを始めた。

 

いろいろ探しているとなんと、あるマンションの最上階の一角に

比較的狭い部屋が空いていることがわかった。

 

これはまさに独身者にはうってつけの1LDKだった。

家賃も他の部屋より安い。しかも診療所にも近い。

その部屋をすぐキープし、そこに住んでもらうことにした。

 

後から思えばこの部屋を授かったことが彼にとって最も幸運なことであった。

部屋の物件探しなどほとんどが不調に終わるのが一般的なことだが

極く短期間で最上の部屋が見つかった。

 

この時は私もこの成り行きを秘かに感謝した。

 

こうして5月末には引越しを皆で行いそのマンションの住人となった。

彼がどれほどこの新住居を喜び感謝してくれていたか、

彼は生涯を通じて体現してくれた。

 

H13年の冬が快適に過ごせたのは言うまでもないことだった。

“先生は地獄から天国へ救ってくれた”、と生前よく口にしていた。

 

H12年4月からは介護保険制度が始まっており、

業務形態は一変し介護支援専門員もつき少しずつ仕事が分担化されていた。

彼は徐々に心身ともに高齢化した。

 

80台後半から認知症状が出現し、夜9時頃階段の一番下の段に座っていたことがあった。

たまたま通りかかった私が、“こんな時間どうしたの?”

と聞いてみるとデイサービスの迎えが来るのを待っている、と言う。

今は夜だから、と言って部屋に戻ってもらった。そんなこともあった。

 

その後次第に元々病んでいた膝が悪化し歩行が難しくなってきた。

室外を移動する時は車椅子を使うことが多くなった。

彼は元々こまめな人で自分でささっと一品作っては訪問時出してくれたりしていた。

が、室内での歩行もままならなくなり、奥の6畳間に座り込んだままそれも出来なくなってきた。

 

やがて90台になると奥の畳の間に座っていることも間々ならず

リビングのベッドに臥床することが多くなった。

そして次第に経口摂取が困難になり、最低限の補液にて維持していた。

 

それも長くは続かず92歳の生涯をみんなに看取られて閉じた。

彼は私より2周り年上の未年で穏やかな優しい性格だった。

 

戦中、戦後の苦しい時代の話も何回か聞いた。

多くの友達は戦死したにもかかわらず自分だけ生き残ったこと、

その後の時代を一人で生き抜いてきたこと、など。

 

生まれて間もなく父を戦病死で亡くし、父親と言うものを知らないで育った私にとって

訪問するたびに我が子のように温かく接してくれた彼は

まさしく私のかけがいのない父親的存在だった。

 

父親とはこんなものかなあ、と思ったりもした。

 

今でも私の診察室には彼が書いてくれた書が額に入って置かれている。

“先生、いつまでもお元気で”、と。